映画の話を監督志望のナガノ少年と喋り、映画は割とだらしない芸術だと。
長期に渡り作られる映画は、序盤に撮影したものも勿論使うし、使わなくとも構わない。
兎に角、序盤に撮ったカットの価値が自分の中で劣化していく場合があるのに、使用しないと終わりがみえない。
一つの作品について考える時間が長くなると、イメージが右往左往したり、膨らみすぎて、初期には考えもつかないアイデアが思いついたりする。
それらのアイデアは、制作初期段階の感覚では成立しないかもしれない。
音楽でいうと作曲段階や練習のところまでをひけらかす必要がない。
映画だと、それらも全て作品として投影せねばならない、というか、映画というもの自体がそういうものの様な気がしました。
決めつけるのはよくないが、妥協ではなくて、監督•スタッフの成長の過程、監督•スタッフの価値観の変動をうまく一つに纏めるのが映画なのか?
これを楽しめないと、映画会社が潰れてしまう、資金が底をついて終了、という事に直結する、それだけの事か。
妥協を楽しむ、それがだらしないを指しているのかねー。
ウディアレンが言ってたらしいが、映画を作る理由は友達を作るためだと言っていたのは共感。
一般的には変だったとしても、やりたい事やって賛同者が少なからずいれば、そいつとはお友達になれそう、映画に限った事ではなく何でもそうですな。
便乗すると、俺は礪波に、昔から、一切妥協無しの音を作りましょうとアプローチしている。
理由は、礪波の結婚相手を見つけるのに、最も確実な手段と俺は考えるから。
あと、誰か忘れたが映画監督で、俺はマフィアになった事も無いし、◯◯になった事が無いから、恋愛を描くしかない、といっていたのも共感出来てしまう。
小津映画の、親父どもが考える、寂しいけれどもそろそろ娘を嫁に出さねば感に近いものを感じる。
という訳で、午後はドラムを叩きます。